原文は日本経済新聞1992年11月18日文化欄 「戦艦武蔵 最期の地獄絵図」に掲載されたものです(原文のまま)。掲載に当たり 著者 柴田 倉治氏と日本経済新聞社から許諾(2000年7月26日)を頂いてますが、このホームページからの転載は許可されておりません。

戦艦武蔵、最期の地獄絵図 

帰らぬ出撃に参加、下級兵士が見た沈没

著者 柴田 倉治

二千三百九十九人中生存四百三十人
戦艦「武蔵」がフィリピンのシブヤン海で沈没してから五十年近い歳月が流れた。いつの間にか巨艦大和や武蔵の最期は美化されて、神話として後世に語り継がれようとしているのではないかという気がする。戦争の残酷さが隠されようとしている。秋田県の田代という小さな集落で私の家は先祖代々農業を営んできた。徴兵で海軍に入った数年を除き、もう六十年も百姓をしてきたが、七十歳を超え、死に対する心構えを持たねばならぬと思うようになるに従い、武蔵の生存者としてあの時のことを語っておかねばという気持ちがおさえ難いのだ。
ブルネイから出撃したときの武蔵の乗員は二千三百九十九人だったと記録されている。生存者は四百三十人ほどでしかなかった。
昭和十九年十月二十四日、レイテ湾突入をもくろんでいた武蔵は満身創痍(そうい)となった末に沈没し、乗員は海に投げ出された。漂流者の生き残り千三百二十九人はコレヒドール島に上陸し、うち四百二十人は輸送船で内地に向かったが魚雷を受けて沈没し、三百人が亡くなった。コレヒドール残留組はフィリピン各地の死闘に狩り出され、ほとんどの方が玉砕したと言われている。

沈没間際「軍刀守れ」
武蔵についての記録を読むたびに、将校や上級下士官の証言をもとにつづられたものが多く、下級兵士の証言が少ないのが私は気になっていた。証言を残す前に死んでしまったためであろう。内地帰還者は将校優先であった。私は全員残留組に入る昭和十八年九月入団だったが、砲術学校を出るとき首席で砲術奨励賞を授与されたのが考慮されてただ一人、内地帰還した。その輸送船が沈んで、台湾の高雄に上陸したとき、先任下士官から、「柴田、お前は悪運の強いやつだなあ」と言われた。「悪運」という言葉を使われてひどくショックを受けた。
こんなこともあった。艦が沈む間際、十七歳くらいの分隊士従兵が軍刀を二振り背負っている。従兵とは上官の身の回りの世話をする兵隊だ。なるべく身軽にならなければいけないそのときに、私は「なぜ」と聞いた。軍刀を最後まで守れとの命令だという。そんなバカなと思ったが、軍人は命令に絶対服従である。従兵は楽して出世が早いので、下級兵士の望むものであったが、徴兵で海軍に入った私は、従兵として上官の機嫌とりだけはしたくなかった。成績優秀者は従兵になるしきたりであった。成績が良かった私は従兵になるところだったが、前任地で「柴田は秋田弁丸出しで何を言ってるかわからないからダメだ」ということで免れたのを思い出し、班長に願い出て、この時も従兵指名を免れた。もし従兵をしていたら士官の犠牲となって助からなかっただろう。
山育ちで川で泳いだことしかなかた私は生き残り、苦楽を共にした戦友が艦と運命を共にした。そのことをいつも重荷に感じていた。下級兵士(一等水兵)としての目で武蔵の最期の様子をありのまま書くことで、亡くなった戦友に対する心ばかりの手向けとしたいと思う。

主砲、斉射の衝撃で故障
「主砲のバカヤロー」
あの時から五十年近くたった今も、この叫び声が耳に焼きついている。三連装、三砲塔九門の主砲は旧帝国海軍の象徴であり、主砲員ともなれば神様のような存在であるのだから、バカヤローという言葉は衝撃的なものだった。
十月二十四日午前十時半ごろ、私のいた後部測的所は緊張の極みに達していた。水平線上に敵機機影が現れたのだった。測的所は敵機と艦との測距離を防空指揮所に通信するのが役目であった。艦内に号令が響き、主砲が一斉に発射された。訓練中に体験したことのない強い衝撃を全身に受け、よろめきながら両耳を押さえた。
しばらく何も聞こえなかったが、測的班長の「なぜ主砲は続けて撃たんのだ」と叫ぶ声が聞こえた。そのとき、私の受け持ちである九七式高声受話器の標示灯が激しく点滅し、ブザーが鳴った。受話器を取ると、「防空指揮所より命令、後部測的所は暫時測的値の送信を中止せよ」という。何の事かわからぬまま大声で復唱する。途端に受話器を取った班長の顔から血の気が引いた。主砲斉射の衝撃でその方位盤(照準器)が故障したと言うのだ。 大艦巨砲の武蔵は自分で自分を使いものにならなくしたのだ。右翼測的手の上等兵曹が「すぐ復旧できますか」と聞いたが、それには答えず、班長は「主砲のバカヤロー」と叫び、天をにらんだ。
方位盤は敵の雷撃で故障したと言われるが、これが私の知る事実である。結局、実戦では主砲ではなく、主砲員にべっ視されていた機関銃員が活躍した。
その日が暮れようとする時、後甲板に総員が集合した。電気系統が断たれたため、今後は人力操舵(そうだ)を試みるということで、副操舵室に入る五十人の決死隊が募られた。
決死隊は即時編成された。私もその一員に加わった。帽子に線の入った下士官は見当たらず、最下級兵士の役である食卓番として顔なじみの者が多かった。艦は浸水しながら傾斜を深めていく。いま艦底の副操舵室に入れば戻れない事は明白である。五十人は一人一人両肩をたたかれながら数を数えられた。私は二番か三番だった。たたかれた時、死の恐怖で髪の毛が逆立った。軍靴をはいたままでは甲板を流れる血のりで滑って立っていられないので、裸足で指先に力を入れて起立していた。
行動開始の命令がなかなか出ないまま、艦尾の白い航跡が消え、艦は停止した。艦底に入らずに済んだという安堵(あんど)感と、艦の運命も尽きたと思う気持ちがまざり合った複雑な感情だった。この決死隊のことも世には知られていない。

丸太から戦友次々に脱落
艦は左舷(げん)に大きく傾斜し、全員がなだれとなって後甲板から滑り落ちた。乗組員は丸太や角材につかまり、夜の海に漂った。漂流者の間で「君が代」が合唱され、歌の輪は大きく広がり、やがて「海行かば」と変わり、次は軍歌となり、星空の下を流れて行った。忘れられないのは「湖底の故里」という歌謡曲が流れたことであった。この曲は艦がまだシンガポールのリンガ泊地に停泊していた中秋の名月の夜、月見の宴が艦上で催され、その時ののど自慢である乗組員が歌って、一位となった望郷の歌であった。
「 夕陽は赤し 身は悲し 」で始まる悲しみに満ちたメロディーは何か艦の明日を暗示する響きに聞こえたものだった。
私はふんどしで自分の体を丸太にしばりつけ、少しでも長く生きようとした。自分を美化するつもりはない。一本の丸太に三十人もしがみついていると海面下に沈む。だから足で懸命に泳がねばならない。重油の漂う海では油が気化し、眠気を誘う。一人、二人と戦友が沈んでいく。最初はしかりしろなどと言って励ましていても、落後者が増えると丸太は浮力を増す。沈む者が出るとほっとする自分の心の醜さが、今も心の傷となって残っている。戦争は、やはり戦争でしかない。あの夜の星空の美しさを目に浮かべながら、その思いを強くする。 (しばた・くらじ=農業)

「日本経済新聞」 大阪版では平成四年十一月二十四日掲載分から転載

この記事の掲載に当たり 著者 柴田 倉治様から「多くの方にご覧いただけるので有れば喜んで掲載を許諾いたします」とのメッセージをいただいております。掲載ご許可ありがとうございました。

戦争でお亡くなりになられた数多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

戦艦 武藏(むさし) 1942年8月5日長崎造船所で竣工→1944年10月24日シブヤン海海戦で沈没

 

 

三菱重工 長崎造船所 戦艦武蔵コーナー

 

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